牛深のみなと文化と雑節(その1)

遠見山公園から一望した牛深と長島海峡


天草最南端の牛深港は、熊本県有数の漁業基地としても知られます。北側をのぞく三方を海に囲まれ、天然の深い入江には水深の深い港が存在し、その前方に浮かぶ下須島によっておだやかさを保たれた良港でもあったことから物流の拠点としても賑わいました。長崎や薩摩中継港としても知られ、「潮待ち風待ち」の港として帆船が寄港し、多くの船乗りたちを受け入れたみなとでは、夜な夜な酒盛りが開かれていたそうです。



毎年春に開催される「牛深ハイヤ祭り」の歌と踊りは、往時の賑わいやまちのホスピタリティを今に伝える文化のひとつ。江戸時代から明治時代にかけ、日本の海運を担った「北前船」の船乗りたちは牛深のみなとで過ごした宴の思い出を持ち帰り、全国各地へ伝播していきました。北は北海道、南は鹿児島まで広がったこの歌や踊りは、徳島の阿波踊りや新潟の佐渡おけさ、青森の津軽あいや節といったハイヤ系民謡として各地で歌い継がれています。

牛深ハイヤ祭り実行委員会サイトより転載

牛深における雑節製造の歴史

江戸時代、天草四郎を総大将にたくさんの領民が蜂起した「島原天草一揆」では、たくさんの犠牲者が出て天草の人口は激減しました。一揆後、幕府直轄の「天領」となった天草。初代代官の鈴木重成は、近隣からの移民を多く受け入れる移民政策が行われるとともに、「定浦制度」を制定。17ヶ浦の漁民たちは数カ村一帯の沖合に及ぶ広大な占有漁場で本格的な漁業を営むことが認められ、周囲に漁村集落が築かれるようになりました。

1707年、牛深でカツオ漁が始まったことに伴い、定浦牛深の中嶋屋がカツオブシの製造をはじめます。これをきっかけに、牛深における「節」の本格加工がはじまりました。長崎奉行への上納品として鰹節がもちいられたほか、1822年に発行された「諸國鰹節番附表」には、世話方として「天草節」の名前が刻まれています。


明治初期に一本釣りがメインだったカツオ漁業は、船の大型化など技術革新もあいまって明治中期以降には五島列島や平戸といった外洋での漁業へと進化していきました。そして、1894年に八田網によるイワシ漁業がスタート。戦時下や戦後すぐは漁業資材の不足や人員、漁区の変化によってカツオ漁が衰退したものの、1948年に牛深は第3種漁港となりました。そしてその翌年にやってきたのが、全国第2位の水揚げを記録した「イワシ景気」です。

天草の「おさかなカルタ」とイワシのつみれ弁当

牛深の漁港では大量に水揚げされたイワシを有効活用するため、煮干しや節製造といった水産加工も盛んになりました。最盛期には牛深だけで500を超えるイワシ加工場が存在し、「煙突から出る煙で港の空が暗くなった」と言われたほどです。


不知火海と東シナ海に接し、豊富な魚種が水揚げされる牛深ではその後、さまざま魚介の加工が行われるようになりました。

(その2につづく)


文責/木下真弓(だしソムリエ)

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