は炭化度が高く、ほとんど煙を出さないことで重宝されて
いたそうです。明治から昭和にかけて、天草下島内には十
数ヶ所の炭鉱が点在していたといい、その周辺のまちは炭
鉱景気に沸いていました。河浦町もそのひとつです。明治
期に地元の有志が掘り当てた炭坑は、長崎や門司、下関の
有志らの助力によって、岐阜の高山の旦那衆と呼ばれた豪
商・田中半十郎の息子 田中栄蔵に引き継がれ、「旭炭鉱」
として事業化されました。
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明治の終わりになるとようやくその質の良さが認められ、
日本海軍の御用炭として治められるようになった旭炭鉱の
無煙炭。宮地岳から一町田、富津村(現在の﨑津界隈)に
かけて広がる鉱区は272万坪を超え、最盛期は200人以上
の鉱夫が集まって採掘を行ったといいます。のちには煉炭
として加工が施され、家庭用の燃料として販路を拡大して
いきました。
まだ車もない時代。炭を運ぶ手段として用いられたのが、
トロッコです。坑口のある今田地区から、一町田を抜け、
当時積み出し港のあった小島の港へつづく道にはレール
がひかれ、その上を馬がひくトロッコが走っていたとい
います。
![](https://shimanotane.jp/wp-content/uploads/2019/08/IMG_8621.jpg)
今村地区にある「轟橋」は、トロッコ道としてつくられ
たもの。上を走るだけでは気づきませんが、木立のなか
の東屋からは、見事な石のアーチを見ることができます。
木漏れ日とのコントラストが美しく、天草の隠れた絶景
のひとつです。
![](https://shimanotane.jp/wp-content/uploads/2019/08/69055273_1200578583458168_3266281203648430080_n.jpg)
一町田地区の「山口屋旅館」の壁面に掲げられていた昭
和10年頃の一町田地区の写真には、「大正9年旭炭鉱の
トロッコ線路と共に開通し、家並みを形成した」とあり
ます。この界隈の広くまっすぐな道路と、その両側に立
ち並ぶハイカラな建物は、炭鉱まちとして賑わった往時
の繁栄を伝えるものでもあります。
![](https://shimanotane.jp/wp-content/uploads/2019/08/DSC_0573.jpg)
界隈には、毎年7月の第3日曜に行われる「虫追い祭り」
の一町田八幡宮や、天草の南蛮文化の象徴でもあるコレ
ジオ跡といった歴史スポットも点在しています。レトロ
な街並みをランブリングしてみると、ひとときの時間旅
行を楽しめます。
先にのせた一町田の街並みで、銀行として創業していた
木造建築は、写真館として引き継がれ、往時の面影をの
こしています。
かつてのトロッコ道から一本路地に入ると、さらに懐か
しい風景がザクザク登場!レトロ好きにはたまりません。
鳥居から続くのは、一町田八幡宮へとつづく参道です。
江戸時代に創建されたのは、一町田川沿いでしたが、
川の氾濫で水害に遭うことが多かったため、大正9年に
現在の地へ遷移されました。
屋根の葺き替えに伴う、リフォーム工事中。工具も
心なしかレトロで魅せられます。