かつて天草諸島の総称だった「苓州」という名に由来し、現在では天草郡唯一のまちでもある苓北町。美しい自然や海産・農産物の宝庫として知られ、天草の歴史の要所を語り継ぐまちでもあります。
まちにちりばめられた歴史の糸口
鎌倉時代、幕府の命を受けてこの地を訪れた「志岐氏」は約400年にわたり、「志岐城」を拠点に下島の北半分を統治。「天草五人衆」が台頭した戦国時代には、志岐氏の采配が天草の歴史を大きく動かすこととなりました。それが、志岐麟泉による宣教師の招聘です。キリスト教が伝来し、一時は天草が国内布教の中心となった時期もありましたが、貿易がうまくいかないことがわかると、志岐氏は態度を一転し、カトリックの布教を禁じる措置を取りました。
1589年、豊臣秀吉の下、小西行長と加藤清正が攻め入った「天草合戦」で、天草五人衆の時代は終わりを告げました。すでに秀吉の「バテレン追放令」も出されていたものの、キリシタン大名の行長は、九州本土から遠く、秀吉の監視が及ばぬ志岐を拠点に天草のキリスト教布教を進めました。ところが「関ヶ原の戦い」で行長が敗北。その後の天草を飛地として治めることになったのは、唐津藩主 寺沢広高です。
寺沢検地によって幕府に申請された天草の石高(米の生産高)は、四万二千石。ですが、実際の生産高は二万一千石ほどだったといわれています。実際の2倍もの石高が過剰申請されたことにより、天草の農民たちは、収穫した米のほとんどを、年貢として差し出さねばならなくなりました。不当な年貢の取り立てに苦しむ農民たちに追い討ちをかけたのが、寛永の大飢饉(※)です。(※1960年代初頭の数年にわたり、大雨、洪水、旱魃、霜などの異常気象と虫害などで、日本各地が食糧や物資不足に陥りました)。
「富岡城」を築城し、徳川幕府の命のもと、キリシタンの弾圧を行った広高。領主の悪政に苦しむ農民たちと、弾圧に苦しむキリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」では、「富岡城」も戦いの舞台となりました。また、一揆後、幕府直轄の天領となった天草に初代代官 鈴木重成が赴任すると、「富岡城」は代官所として天草の復興を支える場ともなりました。
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◉志岐城跡
標高90mの山頂にあった志岐氏の居城で、天草の中で最も大きな城でした。1570年7月、ポルトガル船が初めて入港すると、国内各地からたくさんの商人が訪れてこの地で交易を行い、大いに賑わったといいます。
◉トレルス広場
トレルス神父は志岐に日本中の宣教師たちを集め、日本における布教活動の内容を話し合う「宗教会議」を開催(1568年・1570年)しました。ここは、日本のキリスト教布教の中心だったことを伝える広場でもあります。
◉吉利支丹供養碑(千人塚)
「島原・天草一揆」では3万7000人の一揆勢が死亡。見せしめとしてさらされた1万人の首は、有馬・西坂・富岡の3ヶ所にわけて埋められました。一揆から10年が経ち、鈴木重成が建てたのが、この供養塔です。
◉アダム荒川供養碑
有馬家に仕えていたアダム荒川は過ちから手打ちされそうになり、宣教師の取りなしで難を免れ、有馬や志岐の教会で奉仕。宣教師追放後も伝道師として尽くしたものの、厳しい迫害により、天草で唯一の殉教者となりました。
◉富岡城跡(富岡ビジターセンター)
寺沢広高の時代から築城がはじまり、「島原・天草一揆」の際には幕府軍の拠点として、一揆軍の総攻撃を受けました。一揆後は代官所が置かれたほか、勝海舟が訪れたことでも知られています。石垣を残すのみでしたが、近年復元。今では天草の歴史や自然を知る資料館として親しまれています。対岸に島原半島と野母崎半島を眺めるロケーションで、富岡半島や袋湾の砂嘴を眺める絶景スポットでもあります。