くらしを、デザインする。

愛してやまない、ローカルデザイン。

見た目がどんなに整っていても、しっくりこないものってたくさんあります。逆に見た目は多少いびつでも、妙に惹かれるものもあります。何が違うのかなって考えて、前者は表層的なデザインで、後者は芯のある「営み」を感じられるものなのかなと感じるようになりました。そんなデザインの実(じつ)を知りたくて、できるだけ営みのなかに身を置くことをつづけていたら、不思議なもので知らず知らずのうちに幸福度が上がっていました。

デザインは認知度っていう人もいるかもしれないけれど。私は、幸福度の高いちいさなコミュニティがあちらこちらにいきいきと存在し、それらがときにつながったり重なったり、離れていても尊重しあえたり、いろんな意味で共創しあえる雰囲気や、生みだす風土のほうが、デザインらしい気がしています。肩書なんてどうでもいいけど、願わくば、そこに携わっていたいのです。そんなことを思うようになったのはきっと、天草や県内外各地で生きる人々のあたたかな美学にふれたから。

(あ、もちろん、それらを伝える&つなぐという意味では、その先のいわゆるデザインも必要で。そうした仕事をリスペクトもしています)。

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昨日も、国立公園の美学にふれました。

打ち合わせとお手伝いの合間に「ちょっと来てみて」と言われ、後をついて行くと、ツツジの間からススキが出穂していました。青い空、青い海、雄々しい岩場、陽光に輝く照葉樹の葉、そこにすらりと伸びたススキの穂。なんて秋らしくってすてきな風景!思わずカメラを向けると、誇らしげに「ね、よかろ?」と振り返る白迫さん。

「ここは夏に刈ったら、秋は刈らんで残しとく。ちょうどよか具合に穂が出てきたろ。大ヶ瀬は一年中変わらんけど、ここから撮ると、秋に来たなって季節がわかるもんね」。季節感を醸し出したいとき、意識的にフレームに盛り込む素材がまさか、計算されてのこされていたなんて!旅人やカメラマンやデザイナーならいざ知らず、住んでいる人自身が、こうした感覚を携えているって最強です。しかもその感覚を表現したり維持したりするためには、日々の営みのなかでやることがたくさんあるわけで。まさにアメイジング、の一言です。

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ちなみに、私たちの天草の椿の森におけるこれからの目標は、衣食住の商品や体験の創造もちろんですが、子どものこころのキラキラ貯金、こころの湯たんぽを増やすこと。それがめぐりめぐって、それぞれの場所でいまを生きるひとたちのしあわせにつながると信じています。

この秋冬は、子どもたちにも親しんでもらえる機会をつくっていくので、そのための打ち合わせには清掃がつきもので。桜の葉っぱがひとしきり落葉したあとだったので、落ち葉をかき集め、転んだときのリスクが上がる尖った石ころも寄せ集め。芝生広場では緑がきれいに生え揃うよう、刈った芝を掃き集め。苔むしたゾーンは苔をのこす草刈りを。これ、やってみると結構な時間と労力と、細やかな配慮が必要でして。そうしたことをこれまでずっと続けてくれて、今がある、ということの意味と感謝を深く感じた午後でもありました。